『だから嫌われる』第11条 理論三分・実行力七分
【だから嫌われる】
十一条 理論三分・実行力七分
うまい事を言うというだけでは信用ができない。言う事はたどたどしくとも、実行力のある人間は信用される。信用は実績からだけ生れる。小さいことでも必ず実行に移して、人々に認めて貰う努力が必要だ。人が認めても認めなくても、自分自身に実行力をつける修練としてやっても無駄ではない。最初は、習慣として身につくまでは困難だが、その関所を越せばたいていの事は楽々とできるようになる
孔子は、「訥(とつ)言(げん)敏(びん)行(こう)」「言は訥にして行いに敏ならんと欲す」と訓え、あまりもの言いが得意でない人にとって光明を与えてくれます。
訥々(とつとつ)でもいい、機敏な行動を心がけよということです。
口下手(くちべた)にとっては、流れるように話す人・論理的に説明する人を尊敬しつつも、一方ではうらやみの眼差(まなざ)しで見つめることが多いもの。私もその一人です。
ある先輩は、能弁に加えて実行力も並外れており、いわゆる「口八丁手八丁」いう表現がぴったりのやり手ビジネスマンで若手社員のあこがれの方でした。ある正月にご自宅に伺った際、「山見クン、あれが俺の今年の目標だ」と差された指の延長には、何と「寡黙(かもく)」と筆で大きく書かれた額が掲げてあったのです。
「冗談でしょう」と大笑いしたのですが、長所を反省される謙虚さを学んだものです。
孔子は、さらに「行(おこな)って余力(よりょく)あらば以(もっ)て文(ぶん)を学(まな)ぶべし」(まず実行して余力があったら本を読むべし)と実行第一を推奨します。実行力とは理想と情熱から生まれてくるものなのです。
ところが、頭のいい人はものごとを否定的にとらえ、できない理由を挙げることは上手ですが、実行しない傾向にあります。しかも、多くのことを知識として知ってはいても、どうやるかを知らないか、知っていても実行に移さないのです。
それをKnowing(ノウイング)-Doing(ドゥイング) Gap(ギャップ)といいます。つまり知っていること(知識)とやってみること(行動)のギャップ(壁)が広いほど、実行力のない人になります。
組織内でもこのギャップがいろいろなところで発生し、解ってはいても実行力のない人が社内の改革を阻(はば)んでいるのです。
ドラッカーも「未来は明日つくるものではない。今日つくるものである。今日の仕事との関係をもとに行う意思決定と行動によって、今日つくるものである」と直ちに実行するよう促しています。
小さなことを着実に実行していく人、いやがることでも黙ってぶつぶつ言う間もなく楽々こなしていく人は、小気味良い後味を残してくれるものです。
食べるための徒弟時代に苦しい修行を重ねたロダンは、意見を聞きに来た若い彫刻家に、
「この前言った亊より外に何も言うことはありません。勉強なさい.。粘土をいじりなさい。足をつくる。手をつくる。そしてそれを持ってきて御覧なさい。それについて私の思うだけの亊を言いましょう。そうです。足や手です。実物から執念ぶかくおやんなさい」ととにかく手足を動かすよう激励しています。
そして、「自分の彫刻に甘く出来切らない部分があれば、公衆が認めなくても自分自身が認める。さもなくば、困難をごまかす習慣がつき、投げやりな彫刻で満足するようになって悪い習慣になる。自分の良心と妥協してはいけない。何でもないほどの亊でもです。後にはこの何でもない事が全体になって来ます」とねばり強い辛抱を要求するのです。
実行を修行(しゅぎょう)・修養(しゅうよう)とする心構えが大切です。
PR担当など、外部との接点が多いポストでは、弁舌さわやかな人が向いていると思いがちですが、必ずしもそうではなく、訥々でもきちんと伝えることの方が大切なのです。
能弁の人は注意しないと、ややもすると相手をいいくるめようとし、聴くことを忘れます。さらに、つい自分のことばかりをしゃべり過ぎて、相手も話したいことに神経が行き届かなくなりがちです。それは人の楽しみを奪う泥棒の一種であることを忘れてはなりません。話させ上手は思いやりの深い人です。
能弁すぎるのはよくないとしても、では「雄弁」はいいのでしょうか?
フランスのラ・ロシュフコー公爵が、
「真の雄弁は、言うべきことをすべて言い、
かつ言うべきことしか言わないところにある」
と、実に端的で力強く、口下手な凡人に勇気をもたらすことばを残しています。これはスポークスパースンの心得と言うべきです。
要は、「多量の思想を少量の言葉に収め、普通の言葉で非凡な言葉を言うこと。真理はそのままで最も美しく、簡潔に表現されていればいるほど、その与える感銘はいよいよ深い」(ショーペンハウエル『読書について』)のです。
能言鈍行・・・だから嫌われる