第2条 嘘(うそ)を言わない
第二条 嘘(うそ)を言わない
嘘の必要があったら黙っている、その位頑固に嘘を言わない人、差し支えがあったら、それは差し支えがある、
言わせる方が無理だと言い張れる人、嫌(いや)を嫌と素直に言える人は、絶対に信用される。こう言う頑固は嫌われない。
見栄があったら正直にはできない。裸になれる勇気のある人、言いそびれたら、もう一度元気を出して思うことを言い出せる人、嘘を言わないで損をしない賢い人、知恵のある強い人間。
私たちは、毎日のようにウソを言いたくなる場面に出くわすことが多いものです。約束の時間に少し遅れた時に、交通渋滞や電車の遅れを言い訳にすることはいつものこと。車で遅れると「少し車が混んで・・・」と少し顔をしかめ、相当遅れた時には「前の方で事故があったようで」と勝手に事故を起こさせたりもします。
また、朝、家を出るときは早く帰る予定だったのに、“やむなく”遅くなる場合には、帰宅途中に、どんな言い訳が最も効果的かを冷静に判断します。たとえば「上司から誘われて・・・」「ちょっと友だちが尋ねて来て・・」「帰る途中に先輩にばったりお会いして・・・」などですね。
そして、勇を決して電話した時「あ、ソー」などとすんなり信じてもらった時の安堵感といったら最高で、ほっとした気持ちで一杯になります。しかし、その心地よさが次のウソを誘うことになるのです。ところが、それが裏目にでた時のつらさ!。あれほど気まずく、どぎまぎ”することはそうはありません。人間は、永久にウソをつき続けることはできないのです。
夏目漱石は「嘘は河豚(ふぐ)汁(じる)である。その場限りで祟りがなければこれ程旨(うま)いものはない。しかしあたったが最後苦しい血も吐かねばならぬ」(『虞美人草』)と厳しく突き放します。
企業においても、何か不祥事でもあれば、マスコミや顧客からの問い合わせに対応します。そのとき、どこまでどんな情報を開示するかについて、企業ビジョンや倫理観あるいはコンプライアンスの考え方などの企業防衛との狭間で悩むのです。とはいえ誤解してはならないのは、何でも情報を出すことが情報開示ではないということです。情報を「今、明らかにできること」と、「“今は”、明らかにできないこと」をきちんと分けて、その都度、ことの進み具合を見て、言われなくても記者会見して誠実な対応を心がけることであります。ウソを言わざるを得なくなるのは、誠実な経営の姿勢・透明性の高い広報体制が日頃から整っていないからなのです。つまりつねに新鮮な水と清らかな空気(情報)を組織に注入し、水はけと風通しがよい土壌を造ることにより、滋養分の高い栄養素や健康を損ねる毒素(情報)を吸い上げるのです。
嘘を言わないに越したことはありません。しかし、ウソなしには、人生は成り立ちにくいことも事実です。人間はその時々では、「真心の嘘」を発する必要も多々あるのです。ウソが思いやり・温情で、ホントは冷酷・非情の場合は少なくないのです。だから、芥川竜之介も「わたしは不幸にも知っている。時として嘘による外は語られぬ真実もあることを」(『侏儒のことば』)とつぶやくのです。
誰しも、身内が死に至る病に冒された時、本人に告知するかしないか?で人生で最も大きな苦しみと深い悩みを味わうことでしょう。これは明らかにウソを言うか言わないか?ではないでしょうか。告知しない場合にはすべてを徹底的にウソで固めることになるのです。これが許される極限のウソとすれば許されない極限、つまり真実を言うべき時に言うウソは絶対に許されないことになります。ところが真実を述べるべき極限ともいえる裁判においてさえ、悲しいかな、双方でウソのつきあいと暴(あば)きあいのバトルが展開されています。腕のいい弁護士や検事であればあるほどいかに巧みに嘘を暴き、嘘を暴かれないかの勝負とも言えましょう。
とはいえ、まっとうに生きていく上において、ウソを言うつもりはなくても、結果的にウソになるケースもあります。
以前、若くして独立したある友人が、その日の生活にも困るようになり、「こここ数日ちゃんと食べてない。来月入金のあてがあり、きっと返すから、少しでも・・・」というので、何がしか都合したことがあります。まだ、うまく行かないようで心配です。でも、居所は報せてくるので頑張っているのでしょう。
このように、本当に返すつもりで借り、心は返したくとも、実際に返せない場合だってあります。そういえば、ほとんどの言い訳の素とは「つもりちがいのウソ」ではないでしょうか。その「つもり」をどの程度にみるかによってウソの度合いが変わってくるようですね。ただ、最初から返すつもりがなくて返さない人は“詐欺師”と呼ばれます。
人生は、すべて本当のことだけを言えばうまく行くかというと、むしろそうではなく、いかに本当のことを言うべきタイミングと言い方を学ぶことといっても過言ではないでしょう。
また、儀礼を守ろうとすればどうしても一部分はあいまいにせざるを得ないことが多いものです。杓子定規に真実しかいえない人は、誠実なようでほんとうは冷たい人でもあります。人のちょっとした失敗に対し、知らないと言えること、知らないふりをしてあげることなどは、ウソというより思いやりなのだと思います。
日常生活においても、、今は言わない方がよいことや、ほんとうは言わないでおく、つまり、小さなウソで紛らしていた方が時には人間的であったり、あるいは円滑にものごとが進むことが多いはずです。
世の中は白か黒の二色ではありません。人生はすべていろんなグレーでもあり、多色カラーでもあるのです。つまり、刻々目の前に現れる微妙なグレーゾーンやカラーエリアをいかに切り抜けるかで人生は大きく違ってきます。その処し方に人生の妙技があると言えましょう。嘘は人生の潤滑剤でもあるのです。
今日ほめて明日わるく云う人の口 泣く笑うもうその世の中。(一休)
「善いウソが言えない・・・だから嫌われる」