『だから嫌われる』第18条 働くことが趣味
『だから嫌われる』
第十九条 働くことが趣味
わずかの時間も惜しく働きたい人がある。その人の肉体も精神も働く事だけで満足する人である。余分に働けば、それだけ誰かのためになる。たくまずして施す人なのである。
怠け者はたくまずして人から奪うと同じ道理である。働く事の好きな人の周囲はうるおい、怠け者の周囲は枯れて行く。
思いっきり働いたあとの満足感は、自然にその人柄を豊かにするから働く事の好きな人間は決してすねる事がない。
勤勉といえば、二宮尊徳を思い起こします。貧しい農家に生まれたが、勤勉と努力で自らの生計を立て、村全体の生計と拡充し、幾多の苦難を途方もない努力で乗り越えて多くの農民を助け、勤勉家として仰がれるようになり、高貴な人徳まで高めて「農民聖者」と言われています。
その尊徳によれば、
「最良の働き者とはもっとも多くの仕事をする者ではなくて、
もっとも高い動機で働く者」です。
「働く」は「人が動く」こと。その為には心身ともに健康でなくてはなりません。尊徳に習って、健康で精一杯働き、それによってまず自分の生計を立てる。そして、願わくば他人の人生に少しでも潤いを与えられるようになり、更には、生計を立てる支援をも行えるようになれば、幸いでありましょう。それによって、自らも多少なりとも生き甲斐を感じ、幸せな思いを味わうことができれば、お恵みでもあります。
本当に働くことが好きなひとは、自分の仕事に誇りと情熱を持ち、努力を忘れて努力します。その自分の姿にひとつの美を感じ、アートを見出すからであります。
幸田露伴は、『努力論』において、「努力ということが人の進んで止むことを知らぬ性(さが)本然であるから努力すべきなのである」と努力は人間の本性だと喝破し、「努力して努力する、それは真によいものではない。努力を忘れて努力する、それが真の好いものである」と努力の神髄を突いています。
続けて「しかし、その境地に至るには愛か捨かを体得せねばならぬ」と、生半可な生き方ではそれは得られず、ある覚悟、決意が要るということでありましょう。
それは、超一流のプロが渾身の力を込めてプレー(仕事)している姿です。その華麗さ・力強さなどが動きで表現され、見る人のこころを躍らせるアートとなるのでしょう。
私たちが会社で凌(しの)ぎを削って懸命に働いている姿は、スポーツ選手が相手と競ってぎりぎりのプレーをしたり、画家がひとつの色合いに精魂を込めたりする姿と同じです。
大学バスケ部長垂水春雄先生が、あるコンパで「ひたぶるな努力は美しい」と訓示されたお言葉を大事にしていますが、それも熱中し過ぎる程の「真の努力に到達すれば美しい」という意味だと思います。
つまり、日々の仕事の姿も美しくあるべきです。魅力的な仕事のフォームを自分なりに創り上げたいものです。そのフォームが美しいのか? を他人の目になってじっと観察してみる。常に相手の目・お客様の目になることを心がけましょう。すると、これまでとは違った景色が見えてくるものです。それにより、相手のためになる働きとはどんなものであるかを考え直すきっかけになるのではないでしょうか。
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働き人はもっとも幸福である」とヒルティが言うように、一流の芸術家・アスリートは一点集中を持続する窮極の姿、その瞬間瞬間がすべて幸福の連鎖なのでしょう。
人の心に没頭する働きの喜びを呼び起こすことが教育指導といえます。その没頭する仕事があるから、それに解き放たれた休息があるのです。言い換えれば、仕事に没頭できない人には“真の休息=安息”は得られない。毎日、やるべき仕事をもたない人には“休息”が感じられない。どんな仕事でも大切な惠みなのです。
集中しない、没頭しない、お休息(やすみ)ばかり
・・・だから嫌われる