だから嫌われる 第26条人のよろこびをよろこべる人
『だから嫌われる』
第二十六条 人のよろこびをよろこべる人
人の不幸や悲しみには同情できても、人のよろこびを真からよろこべる人は少ないと言う。それはわれわれの心の中に嫉妬(しっと)心(しん)があるからだ。人のよろこびをよろこべる人は嫉妬心の少ない人で、自信のある人だ。
また明るい楽天家で情に厚い人である。真に何かを悟った人である。その心の伸び育った人は自分に都合の悪い人間のよろこびでさえ、先ずよかったと思える人である。
よろこびを共によろこんでくれる人は、悲しみの時の友より有難い。
子供は、何かに挑戦するとき「お母さん、見てて!」といいます。そして、それがうまくいったとき、「見て!」得意げにそのよろこびを爆発させます。
母親はそれを見て無上の喜びを感じます。
子供は、母がよろこぶのを見てうれしくなり、「また見てて!」となります。さらに褒め・喜ぶとまた催促する・・・。誉めてあげることは、次の挑戦に向かっての力強い原動力・意欲となるのです。何度もまたやろうとし、見ることを強要する。誉められることとそのよろこびの協奏曲と言ってもいいでしょう。
三島由紀夫が「この世でもっとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ」(『癩(らい)王のテラス』)というように、この母親ほど、人のよろこびをよろこべる人はいません。その姿は子供に大いなる自信と勇気を授けます。
プロスポーツ選手でも芸術の世界でも、子供のころ撮られた母親との練習風景ビデオは感動的です。母親というのはいわば人生ビギナーに対するコーチといえます。
スポーツのコーチはもちろんピアノや絵画の先生もそうですね。優れたコーチには優れた選手が育つように、善い母親に善い子が育つのは当然です。しかし、逆も信なりです。
こう考えると、学校の先生はまさに、その極致で、教え子の上達が生きるよろこびにもなりましょう。教え子のほうも何歳になっても、先生によろこんでもらうためにも頑張って成功しようとするものです。
人のよろこびをよろこべる人とは、人のよろこびに対し何らの嫉妬心も抱かずに素直にともによろこぶ心の持ち主です。
つねに赤ちゃんや子供と遊んでいる気持ちでいることが大切だと思います。それが自分を素直にもさせる道でもあります。
その時、人はいつも善い人であり、良い人であり、そして好い人なのです。人の心に酔う人でもありましょう。
人のよろこびをよろこぶ自分の姿をみて、成長したなと内心よろこんでもいいでしょう。しかし、ついでにそれが心の奥からでた、本心かどうかについてもうひとつ確かめてみるといいものです。
あなたが、その人に尽くすのは、その人によいことをして、喜ばせたいからではなく、(本心は)その人からよくしてもらいたいためではないか?と、時にわが心に尋ねてみることも自らを粛むことになります。
一方で、人は、自分が愛している人を信じている人や尊敬している人に誉められたとき、無上のしあわせを感じるものです。
相手の愛する人、好きな物、夢中になっている趣味・・・を心地よくほめたり、美点をあげたりすると、その人の頬がたちまちほころび、目じりが下がるのをうれしく見ることができます。
「信ずる者に愛する者をほめられるのは、朝日に玉をかざして見るようなものーー光は倍するのである」(『思出の記』徳富蘆花)
注意しなければならないのは、人のよろこびを見る目は、半分はよろこびですが、あとの半分は往々にして嫉妬の気持ちになるからです。特に、ライバルと目している人がよろこぶ姿を見る目は、ほとんどうらやみの眼差しになりがちです。これは自分の心に訊けば、誰しも思い当たるものです。
だから勝者敗者が歴然とするスポーツの世界でも、勝者が勝ち誇るシーンよりも敗者を労わる言葉や態度の方が、少ないだけに感動的な気持ちに満たされて、ふと涙腺のゆるみを覚えるのです。
うらやみ、ねたみ、あるいはそねみは、自分に近くなるほど強く、遠くなるほど弱くなるものです。嫉妬の感情は、人間がどうしても克服できないもののひとつ、その思いは際限ないものなのです。
だから武者小路実篤も、「隣人の幸福をやきもきしないものは幸福だ」(『幸福者』)と断じています。
妬(ねた)み、嫉(そね)み、羨むばかり
・・・だから嫌われる