『だから嫌われる』第23条 信用してもだまされない
『だから嫌われる』
第二十三条 信用してもだまされない
人は大ていの場合計画的にはだまされない。だます本人が何かにだまされてる場合が多い。従って、一応だれでもそのまま信ずることは馬鹿げたことではない。人を信じても事物を見通す明があれば、だまされることはない。
「人を見たら泥棒と思え」式の人は、徹頭徹尾疑ってかかるから、その態度を緩和しようとして相手の態度はいよいよ悪くなる。悪意もないのに疑われるのはさびしい事である。 人を直ちに信用する人は人をさびしがらせない。たとえ計画に乗ってくれないとしても。
・・・・・・・・・・・・・・
世の中には、すぐ人を信用してだまされやすい人と、容易にだまされない人がいます。
だまされやすい人とは、
▽欲が過ぎる
▽人が良いばかりで疑う気持ちがない。
▽批判する常識に欠ける。
▽おかしいと思っても判断する力がない
▽自分で抱え込んでしまい、人の意見を聞こうとしない
▽おかしいと感じても言えないまま流される
▽最初に信じたらのめりこんでいきやすい・・・
だまされにくい人とは、
▽ (意)欲がない
▽ おかしいと思う常識ものさしをたくさんもっている
▽ すぐ相談できる人がまわりにいる
▽ まちがっていると言ってくれる師匠がいる
▽ リスク感覚が鋭い。3割くらいは客観的に自分を見る冷静さをもっている
▽ べたべたし過ぎず、付き合いに節度がある。
▽ 親しくなっても他人の心にまで土足で入り込まない、 入り込ませない。
というものでしょう。
人を信じ、人生に希望を持つ人間と、人を疑い、人生を否定するような人間とでは人生の生き方が大いに変わります。人間は「人の間」。信じる人は明朗で愛情が豊かなひとが多いもの、容易に人を信じない人は、暗く、薄情なひとが多いのではないでしょうか? それに付け込んだ「オレオレ詐欺」が流行るのは信じやすい人が多い?からでしょう。
老子に「信言は美ならず、美言は信ならず」とあります。真実味のあることばは決して美しく飾ったものではなく、飾ったことばには真実味はないものだというのです。
そこで、だまされないようにするには、まずはあまり常識からはずれない自分のものさしを持つことです。しかし、いつも磨きをかけておいても、自分のものでは測れないことが多いので、見識ある先輩、異見を持つ友人などの優れたものさしの力を遠慮なく借りることです。
つまり、「自分の明」がなければ、「他人の明」に頼るのです。世には、経験豊富な先達が、「助けてあげよう」といつでも腕まくりして待っておられるのですから。まずは、信用してかかることは、自分のポテンシャルを惹き出し、高めることになります。
一方、信じるばかりではいけないことをデカルトが教えています。「ワレ思ウ、故ニ、ワレ在リ」(『方法序説』)という有名な言葉にあるこの「思ウ」はどちらかというと疑うという意味だそうです。「疑うことが人間」というのです。疑うことよって、いろんな改善ができ、独創的な考えを産み出し、独自の発想が促されるものです。いちど物ごとを否定することから新たな考えが浮かび、生活を高める創意工夫が進むのです。疑うところに真理が生まれるといいますが、何を信じ何を疑うかの判断力を養うために、勉強に勤(いそ)しむ意味があるのでしょう。
信じることと疑うこと・・・いずれも大切、両方のバランスをとりながら日々生きることが人生です。その間をうまくかじ取り、蛇行しながらも自分の目指したい方向へと自分と言う小船を進めていく・・・これが人の間の世渡りの秘訣でありましょう。
「信」と「疑」を天秤にかけてみて、「信」が重い人は好かれ、「疑」が余りにも重い人は嫌われます。
とは言え、“鵜呑み”するのは禁物! 特に、ネット社会になり、真偽不明の情報が飛び交う昨今、いわゆるFake Newsに惑わされてはなりません。ちょっとした簡単そうな儲け話で人を騙す多様な種類の詐欺師が蔓延るのも注意を怠らないようにしましょう。
信じやすい人や何らかの弱み・迷い・悩み・・・を抱いていそうな人に、巧みに寄り添う素振りを見せて、その心中に深く取り入り、最終的に騙す手口にも心を配りましょう。
三信七疑・・・だから嫌われる