『だから嫌われる』第21条 ユーモラスな人
『だから嫌われる』
第二十一条 ユーモラスな人
真面目な話の中にも何時か人を笑わせ、決して苦しい緊張の中に長時間人をおくようなことをしない人がある。
どこにいってもなごやかな雰囲気を作っていく人、気まづくなった空気や、かたくなった気持ちを一寸した機智でほぐしてくれる。実にありがたい大切な人である。
こう言う人のいる会話にはなんとなく安心がある。よりかかった気持ちになれるものである。直ぐに座を白けさす人に較べて大変な違いである。
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ユーモアhumor(ヒューモア)とは、まず「持ち前の気質・気性」であり、
「思わず笑いがこみ上げてくるような、あたたかみのあるおもしろさ。おかしみ。上品な滑稽。上品な洒落」という意味です。
この「思わず」というところがこのユーモアの真髄でしょう。単に滑稽や洒落ではなく「上品な」がついているところに気を惹かれます。「おかしさ」ではなく「おかしみ」と語尾が「み」になっているところが日本語の味です。ユーモアに近いことばのウイットwitは知的で、humorは情的なおかしみともいえます。
ウイットに富む人、ユーモアのある人はいずれも、好かれる感性に恵まれた人でありましょう。
もっともユーモラスな人は、赤ちゃんではないでしょうか? 何をやってもユーモアがあります。意識せずしてユーモアを与えてくれる天才でもあります。それは、天性から来たものですが、本質的に純なるものから産まれるものです。
ところがその天才が、次第に成長すると、社会常識や慣習、理性などによってユーモアを忘れてきます。実に、もったいない!
因みに、英語で十人十色とは、“Everyman has his humor”といい、私達はそれぞれ生まれつきユーモアをもっているそうでうれしくなります。
職場や何かの集まりではいろんな冗談で人を笑わせることが好きな人がいます。もともと世話好きで宴会のリーダー役などによく押される人ですね。
笑いを誘い、話しを弾ませ、自分も楽しみながら座を盛り上げる喜徳な人で、ユーモラスな人の素養は十分です。しかし、その人がユーモラスだとは限りません。最近、テレビなどで、自分の笑いで笑いを強要しようとする品性のなさに気付かない悲しいお笑いタレントも見受けます。「ユーモア」も勘違いされて迷惑しているようです。
ユーモアとは、単なる冗談(じょうだん)・ギャグや駄洒落(だじゃれ)などとは次元が違うものです。
漱石も「冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒こげのようなもので誰も誉めてはない」(『坊ちゃん』)と皮肉っていますが、このことばこそユーモアというもの、要するに「上品さとおかしみ」の両方がいるのです。
シェークスピアも「阿呆に限って、駄洒落だけは妙に達者ときやがる!」(『ヴェニスの商人』)と手厳しい。
ユーモラスな人は、真剣な話をしているなかでもコトバを選んで笑みを誘い、やわらかい雰囲気にしていこうと努力する人です。
ユーモアのあるひとは、想像力や連想力に長け、話題を楽しい方へ興味ある方へと導いてくれます。それは、何らかのユーモアを織り交ぜながらでないと、スムーズにできるものではありません。そんな人は、一定の高い教養と深い思慮や思いやりを具えた人です。参加者の心の動きをよく察知しながら、最大公約数のレベルの話に合わせる必要があるからです。
座がユーモラスな雰囲気になるには、ユーモアを与える人ばかりではなく、広くユーモアを解せる人もいなくてはなりません。「真のユーモア」つまり上品な洒落、品のあることばのなかにおかしみを解するには、逆にそれを感じる力が要るからです。
ユーモアを与える人と解する人が多いと世の中が和やかになっていくようです。
もちろん、ユーモアにもレベルがあります。どんな所で、どんな話にユーモアを感じかによってその人の品性や格調の高さを察することができる。できるだけ潤いのあるユーモアがわかるようになりたいものです。
但し、「自分はユーモラスな人である」と自信をもったとたん、逆に話に臭(くさ)みがでるおそれがあることに気をつけましょう。心に余裕をもち相手を思いやる心が先決ですが、ユーモアを表現する語彙やことば使い、それに状況に応じた話し方にも工夫がいります。
一流の人物は一流のユーモアのセンスを必ずもっているのではないでしょうか。品のあるユーモアを、適宜適切に使えるようになりたいものです。
センスなき笑いを強い、駄洒落を押し付ける
・・・だから嫌われる