『だから嫌われる』第18条 人に何かを与える人
『だから嫌われる』
第十八条 人に何かを与える人
交際していて常に人に何かを与えて行く人と常に人から何かを奪って行く人と二通りある様だ。常に与えて行く人は必ずしも金持ちではなく、奪う人必ずしも貧しい人ではない。与えたくてならない性分と言うものがある。
何もしなければ優しいお世辞の1つも言わないと気がすまない。こう言う人は与えることが、わけることが楽しい性分なのである。 わけるために、与えるためにこういう人は働く、決して悪い趣味ではない。
周りに「お人よし」と言われる人がいます。いつもにこにこして、都合の悪いようなことやお願いごとを恐る恐る言っても「よしよし、何とかしてあげよう」という態度で接してくれる人です。実にほっとします。
そんな人のお陰で、人生が少しでも明るくなるように思います。中には親身になってお世話しようとする人もいる反面、うわべだけ、言葉だけの人もいることでしょう。そこで、行動力を伴うお人よしは貴重な存在です。自分の経験・人脈を算段して何かの役に立ってあげようという姿勢に溢れ、親身になって叱る人もいます。
そのような人はいろんな意味で実力があるだけではなく、包容力があり、心が豊かであることはいうまでもなく、真に与えることが好きな人といえます。
また、自分の趣味での単なる「おせっかい」「世話好き」にならないように自らその限度を計りつつ、相手のその時々の心情を察することを怠らない人情家でもあります。
与えるものは、物でなくとも、真に優しい心から思わず発するやさしい一言、思いやりのことばで十分なのです。そこに余りにも小さい自分を発見すれば、さらなる自己研鑽の要を感じ、励みとする一助にもなるのです。笑顔もそうです。穏やかな微笑みは無償の贈物! 笑顔でも最高のものではないでしょうか。
幸田露伴は、「福には。惜(せき)福(ふく)・分(ぶん)福(ぷく)・植(しょく)福(ふく)がある」(『努力論』)と言います。
まず、惜福とは、福を惜しんで使い、節約して使い尽さず他のために残しておくことです。この工夫をする人には幸福が寄って来るそうです。
分福とは、自分の福を他人に分けてあげること。1本のお酒も1人で飲むより、2人で飲めばともに楽しく酔うことができるというものです。それは、春風の和らぎや春の日が暖かなようなもので人に無限の懐かしさを感じさせるものです。分福するには、老若・地位・豊貧を問わず、ただ自分のもつ何かを少しでも他人に分かち、共に喜ぶことを無上の喜びにするだけです。
その上には「植福(しょくふく)」があります。その福が自然と増える、植林のような仕組みにすることです。徳を積み智を積むことによって福を植える人は福を造る人です。
まさに、会社経営とは植福でなければなりません。惜福者・分福者のサークルが会社になれば、植福会社になるのです。
人は誰でも“有福(ゆうふく)”です。たとえ裕福(ゆうふく)でなくとも、自分の存在そのものが日本のため、また世界のために有福ではありませんか。
分福は分福を呼び、分福・植福が増えると「受福者」が増えます。
いつの日か、あちこちで受福の喜びに人知れず涙する人たちが増えることを信じましょう。
ひとりひとり受福者を増やす一員になれば、自分の人生に格別な味わいを醸(かも)し出すことになるのです。
私達はそれぞれ、世界でたった1人しかいないかけがえのない存在。他人に学ぶことはあっても比べる必要はありません。自分を必要としている人に、自分の価値=Valueを与えましょう。Give&Takeではなく、先ず与えることを信条とすると、物事を気持ちよく受け入れるようになり、人とのコミュニケーションが楽しくなります。敵意は好意に、悪意が善意に代わるのです。
米国の思想家エマソンも、「才能は天から与えられた使命だ。自分に対して一切の空間が開かれているような方向が一つはあるものだ」と励ましてくれます。
あげるのは嫌、分けるのも嫌・・・だから嫌われる