『だから嫌われる』第20条 工夫のいい人
『だから嫌われる』
第二十条 工夫のいい人
生活のその場その場に、絶えず湧くようにすぐれた思いつきがあり、感嘆するほど工夫のいい人がある。そう言う人が一人いると家庭も職場も活き活きとしてくる。一つの工夫は次の工夫を生んで何時も生活が新鮮である。
工夫のいい人は、思いがけない思い付きを生み、よい思いつきは折々素晴らしいものを発見させる。仕事の上にも生活の上にも、常に新しい道を創り出し繁栄させて行くのはこういう人である。
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「工夫」とは、あれこれとよい方法を考えることですが、簡単な字画ながら重要な意味を含んでいます。つまり工夫できることは頭脳をもつ生き物の特権でもあるのです。
動物は獲物を捕るときと身を守るとき、本能的に最大の工夫をします。
例えばライオンはシマウマを襲うとき、風下から近寄りにおいを消し、身を潜めて見えないように工夫します。アタマのいい犬になるともっと賢い工夫をします。さらにサルやチンパンジーになるとその工夫はより高度になります。イルカにはまた別の頭のよさがありましょう。つまり下等動物になればなるほど本能だけなので工夫はゼロに近くなり、脳の大きさに比例して工夫が多くなります。
子供を見てみましょう。放っておいても自分で遊ぶ。何もなくても遊びを考え出し、楽しんでいます。そして新たな発見をして学び、次の工夫につなげ、また発見と驚きの繰返し。そうやって脳が刺激され発達して、成長していくのです。
親はその過程がたまらなく可愛くいとおしいものです。
つまり、多彩な工夫、難易度の高い工夫は、高等動物の証(あかし)であり、より大きな頭脳を持つ生き物であることを示しているのです。
人間としての尊厳をそこにおいて、「果たして自分はどうなのか?」と胸に手をおいてじっと考えてみるといいと思います。
「自分という動物は、いかに独創的な工夫ができるのか?」
工夫の多さ、多彩さ、独創性・・・などを「高等指数」あるいは、「工夫指数」とし、高等さの尺度としたら、自分は何番目なのであろうか?
私達はこの工夫することをだんだん忘れているのではないでしょうか?
それぞれ振り返ってみれば、小さい時、中・高校生時代、社会人になった頃、課長になりたての頃、自分なりに高い工夫指数を誇っていたはずです。
ところが、今や徐々に低下していく自分を発見して淋しい思いをしている人も多いことでしょう。逆に、いつも創意工夫を忘れない人、その指数が上昇している人はきっと活き活きとして、豊かな毎日を過ごしていることと思います。
医学者・解剖学者養老孟司(たけし)さんは、
「“個性”なんてことばはない。もともと人間は個性そのものなのだ」(『バカの壁』)というのです。3歳児を見てみましょう。自分もかっては”個性”だったはずです。
つまり自分の力を発揮することそのものが個性なのです。工夫することは、まさに個性の発露であり、生きている証になるのです。
人生はパノラマ。いろいろな障害や苦難が容赦なく次から次への目の前に現れてきます。その天が与える試練に対して、古代ローマの哲人アウレーリウスは
「波の絶えず砕ける岩頭の如くあれ。岩は立っている。
その周囲に水のうねりはしずかにやすらう」(『自省録』)と毅然とせよ!激励しています。
どんなことでも、何ごとが起きても天から与えられた運命と考えて受けて立ち、小さな工夫、思いつき、小さな思いやり・・・などの「創意工夫」によって乗り切っていくことは、最大かつ最高の頭脳に恵まれた私たち人間にしかできないことです。そこで、どんな悲しみに遭っても「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である」という信条をよりどころにするのです。
本来、工夫する力は人間に備わっているものです。逆に、工夫しない人はライオンやサルにも劣るといわれても仕方がありません。
とはいえ、我が身を振り返り、たとえ工夫無き自分を見ても落胆も悲観もすることはありません。、それは一時的なものです。昔のほんとうの自分を、“暫くの間”忘れているだけなのです。今からでも遅くはありません。個性的だった自分を取り戻せばいいのですから・・・。
工夫はユビキタス、いつでもどこでも誰にでもできるのです。
工夫には地位も金も不要だし、老若男女を問いません。必要なのは人間としての尊厳です。人として生きる意志、自分としての自尊心や自負心、そして自らを大切にしようとする誇りです。
工夫する人に年を数える暇(いとま)はありません。工夫の瞬間・瞬間に夢中で、工夫に余念がないからです。そんな人は、好かれる工夫の達人でもあります。「人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある」と喝破するアリストテレスは、「人は単に知っていることによって“知恵ある人”たるのではなくして、それを“実践し得る人”たることによってそうなのである」(『ニコマコスの倫理学』)と頭の工夫より手足の工夫に重きを置き、鈍才を励ましてくれています。
思いつかず、工夫もせず、あてにするばかり
・・・だから嫌われる